宗教的な側面からのアプローチ
前回は現実的な側面として法律という話から善悪を考えましたが、人類の歴史を振り返ってみると宗教というものが善悪を判断する基準として大きな役割を果たしてきたように感じられましたので、今度は宗教的な側面から善悪を考えてみることにしました。
あくまで自分の認識ですが歴史もあり多くの人が信奉するものは概ね人や世の中。社会をより良いものへと導いていこうという理念が根本にあって、その教えを何の疑いもなく完全完璧に行うことは大変難しいとしても、より自分を高めより立派になるように努力させたり、良い方向へと目を向けさているというものであるように捉えています。
勿論良い面だけではなく宗教をだしにして悪用するような悪い面や悪魔崇拝みたいな人の道を外れたパターンはあるにしても、もしこういった人間を超えた存在というものに対する考えがなかったら世の中に何の希望も救いもないし、心の平穏や安寧もないし他人を顧みず自我欲望のまま突っ走る人ばかりになるし、過ちを悔いたりすることも少なくなるし逆に罪悪感で押しつぶされたり悪人は悪人のままで改心する機会も少なくなるしと、そんな色々なことを挙げていくと大変大きな役割をもっているように思えます。
実は宗教の役割はかなり大きいのでは?
自分の主観ですが大体の宗教は基本的に何が正しい生き方なのかや何が良い行いで何が悪い行いかの善悪を規定しており、異なるものでも部分的に似通っていたり共通しているところがあるように感じられました。
では何が違うのかというと、じゃあ実際にどうすればいいのかという実践的な細かい部分や、思いや感情の持っていき方。世界の捉え方などの部分に違いのあるように見えます。
しかし何にせよどの宗教も最終的には完璧な善人。また世の中にとって良い影響を及ぼす人間にさせる。または完全に安心立命するというゴールを目指しそこまでなんとか導こうとしているように思えます。
そこでふと人はどういった時に自ら宗教の扉を叩くのだろうと考えた時に、病気や貧乏。何か上手くいかないことなどの不幸から脱却したいという理由が多いとしても、なんだか世の中には禍事が多すぎる。分からないことばかりでなんとも不安になる。生き方や考え方。物事や事象の捉え方の明確な指標が欲しいと考えて入るパターンもまたあるのではと考えました。
なんというか何が起こるか何に巻き込まれるか明日のことどころか数時間後のことさえ分からないし、世の中にあるあらゆるものや起きることに対してあまりにも無力で自力ではどうにもならないことが多すぎる。何よりどんな人間であっても必ず死というものが誰一人として例外なく待ち受けていて、普段はそういう思いが表面的に顔を出すことは少ないかもしれませんが、死に対する恐怖感が常に心の奥底に張り付いているので、完全に安心しきれるというのはなかなか難しいのではと考えます。
唯物論者の考えとしてよく言われる、神も仏もありはしないし、死んだらそれで終わりだし何が起きてもあくまで人の力だけでなんとかするしかないというのは確かに分かる気がしますが、例えば寿命でもなんでも自分が死の淵に直面した時に、ああこれで自分の人格は完璧に消滅するんだ、と素直に受け入れられる、あるいは死の直前で自分が死ぬという事実を自分ひとりで全部受け止めきれる人間や一切の感傷もなく葬儀を完全に単なる慣習と割り切れる人というのはなかなか少ないのではないかなと思えます。
そういったもろもろのことを考えると、宗教というものがそれらに対する理解を与えることで不安や心配などをやわらげ安心立命へと繋がる道を示しているのではと思いました。
生きていれば絶対に悪いことは起こるし、理不尽に感じることも多いだろうし感情が常に一定でまったく乱れないなんてことはありえないのだから、なんだかんだいってどんなことに対しても不安が無くなる安心立命というものが一番求められている部分なのではないかなと個人的には考えます。
良い宗教と悪い宗教を考えてみる
しかしながらそういったものやご利益だけにつられて上手く絡めとられているようなパターンもあって、特に新興宗教なんかに多い気がします。
タイムリーに近年ようやく問題が明るみになっていることなどもありましたが、やたらとはじめからありもしない罪悪感を植えつけて何かにつけお金をせしめたり、誰にも確認しようがないいくらでもどうとでも言えるような、運命とか先祖とか心霊などを持ち出して脅し批難し弱みにつけこんで好き放題に相手をコントロールする宗教としては下の下の、人を活かすどころか単に自我欲望を満たす為だけの道具としているような存在自体が邪悪なレベルのものだったり、思想が極端な方向に振り切った挙句テロ行為にまで走ったものまであったせいかどうにも新興宗教アレルギーというか、その言葉を聞いただけでつい嫌な感じがして警戒してしまったり眉をひそめることが多いのは無理からぬことかなと考えます。
よく勘違いされがちなこととして、何かを言い当てられたり何かが見えたりするというのは単に足が速いとか絵が上手いといった能力のひとつであってその人物の人格の高さとはまったく無関係であり、むしろそう思われていることを上手く悪用しているパターンが多いと言われています。
あくまで主観で自分に一切霊感的なものや人相学の知識がある訳ではありませんが、よく宗教家。宗教指導者と言われる人物に普段なかなかお目にかかることがないようなどうにも変な顔つきをした、なんだか長年人をたばかることばかりしてきたような長い時間をかけて堆積した心の有りようが顔や表情の端々に出ている感じがするのがやたらと多いというか、普通に表向きも悪党然としている悪党以上にずっとたちが悪い、一見分からないように悪の側面が隠されているだけでなく、表向きには善人を装うので余計に嫌悪感が増しているような気がします。
例えるならいかにも危なそうだけどちゃんと見えている落とし穴と、表面がうまく偽装されて普通のなんでもない道を装っている落とし穴のようなものです。
これと関連する話があり詐欺にかからない為のテクニックとして、黙ってよく人の目の奥をじっと覗いてみると結構分かる、という話を昔聞いたことが連想されます。というのも目の奥だけは感情と直結していて嘘をつきにくいので「この人は本当のことを言っているのかな?」と思った時は試してみるといいかもしれません。
話が少し逸れましたが、では逆に良い宗教とは何だろうかと考えた時に過去の高名な覚者が説いていた話やその目的が凄く納得感がありました。
それはその人を活かす。表面的な不幸などに動じない心の底から安心立命させる。心を明るくさせ勇気を与える。自分のことばかりでは慈愛や善に対して積極的な人にさせる、というもので確かにもしこれを目指す人が増えていったのならば、世の中は今よりも確実に良い方向へと向かっていくのは間違いなさそうに思えます。
そんなことを考えると本当に宗教というのは物凄く有益なものでもあり、同時に悪用したのならとてつもなく恐ろしいものにもなる、扱う人間によって人や世の中を活かすも殺すもどちらにでもなりえる非常に扱いが難しいものだと改めて感じました。
次回は
今回ではまだ前置き的なとっかかりだけで本題にまで行かなかったので、次回も引き続き宗教的な観点からの善悪の回となる予定です。