【制作連載企画】第4回 善と悪を更に考える

2024/04/29

制作連載企画2024(お話づくり)

昨年から引き続きのテーマを更に考えて補強する回です。


例えば物語づくりにおいて、勧善懲悪ものであれば分かり易いのですがあまりにも浸透しきってしまった、または肥大化しすぎてしまい最早はっきりと見えなくなってしまった悪を打ち倒すお話であるものなら、改めてここをしっかりと決めておかないと伝えたいことがぼやけてしまうような気がしましたので、更に考えを深める回です。これの次はそもそもの二元対立についての話を予定しています。

前置きの余談

言葉はまさにそのものを表しているという話で、魔というのはつまり間。悪魔というのは間が空くというもので、間があるということはそこに魔は入り込む隙間となることを聞いたことがあります。
またそれとは逆に高次元の周波数(波)は高密度で隙間が無いので魔が入り込む隙間がないということで、確かに間が空くと人は余計な疑念を持ちやすいというか、疑心暗鬼を生ずるパターンが多いような気がしましたので聞いた当時はなるほど、と膝を打った記憶があります。

人を食うこと

カニバリズムは人肉嗜食。まさに直接的、物理的に人を食べる禁忌的なことですが、多くの人が知ってか知らずかまさに人を食っているのと同じことをしているという話を聞いたことがあります。
これは人の犠牲の上に自分を生かすことが人を食うことと同じ、という話で自分の金銭や安全。または自分を守る為に人を犠牲にする。つまり自分の為に他の誰かを犠牲にすること、という説明でした。

確かにここ数年を考えるとそういったことが一般人レベルでもよりはっきりと顕在化したように見えます。
例えば報酬欲しさに毒を薬として勧めることもそうですが、人の犠牲の上に随分儲かった分野や人たちが大勢いてそれはまさに人を食ったと言えます。

特にワクチンのことに関しても人の生き死にや健康に関わるものならば、一旦立ち止まってよく考えよく調べて慎重に判断し発言・行動すべきだったのでは。もし何かあったら責任をとれるのだろうか。知らなかった。指示に従っただけだが通用しない結果がすべての世界であることは子供のうちにいくらでも学べた筈ではと、特に喧伝していた政府関係やメディア。インフルエンサーや芸能人、有識者などはまだひとつもけじめがついていないように見えます。

コロナ騒動が出始めた当時はじめから懐疑的だった人たちが結構多くいたのは自分としては驚きは少なく、もう何年も前に慈善家の仮面を被った悪党がもたらしたものでインドの子供たちがどんな目にあっていたか。またそれが蛇蝎の如く嫌われておりそしてそれがとても激しいもので、これらを知っていた人らからすればコモンセンスみたいな認識となっていた状況を見ていたので、あんな急造のあらかじめ用意していたかのようなものを自ら進んで打ちに行くなど正気の沙汰ではないという認識はまったく間違っていないと思っていました。

世の中が決して捨てたものではないなと思うのが、損得よりも良心の声に従い人を助ける情報を発信し続ける人たち、時に例え自分がリスクを背負ってでも良心を曲げることない人たちが常にい続けている限り、世の中が完全に駄目になることはないように思えます。

しかしどの話を信じるか信じないか自分の中で納得感が出ないまま流されたり、自分の判断の結果をちゃんと受け取る覚悟がない限り人のせいにしてしまうので、結構根本的な自分という軸の確かさを問われた出来事だったような気がします。

ちょっとずつの理論

自分を守り過ぎることが世を悪くする。自分や自分の家族、親しい間柄だけを守る狭い範囲の利益の追求が世を不幸にする、という話は具体的にどう駄目なのか、大体みんなそうなんじゃないのかなとあまりピンとこなかったのですが、ここ数年でようやく少し理解が出来はじめたような気がします。

最近ある大臣の家の前で人々が抗議の声を上げており、それらの人たちを警備している者が威嚇している動画を見ましたが、これが凄くおかしな光景に見えああこういうことなのかと分かりました。

人の命を奪った方と命を奪われた方の一体どっちが悪党なのか。仕事だから。生きていく為には。家族が養えないから。そんな理由が背景に見える訳ですがなら例えば反社的なものを生活の糧にしている者が、それを止めさせらたらどうやって生活すればいいのか。どうして家族を養っていけばいいのか、という滑稽な戯言と方向性としては一緒であるという話です。

自分の生活や家族も大事というのは分かるとしてもそれを守ろうとするあまりもっと広い範囲の不利益を無視する。その仕事がどんな影響を及ぼしているのかを考えないでただ仕事だから仕方ないと続けてしまうとどんな結果となり、どんな世の中となるか。

危険な食品やパチンコ。気候変動詐欺なども同じで人を損なうことで利益を上げる、自分の生活を成り立たせること。自分ひとりぐらい、とそれが積もり積もって大勢の人がそういう意識の下に仕事をしていると、よりそれが顕著に。人の犠牲のなんとも思わないものに富や力、権力が集中していく構図をより強固にしていくということです。

公平負担という建前の税金に関することもそうですが直近でも驚くほどあっさりと決まったインボイス制度は一体何だったのかを知るだけでも実感出来るように感じます。


ネットで見つけて保存したものですが製作者の方に感謝申し上げます。
こういう分かり易くまとめた表で消費税という身近なものがこうなっている状態を見ると、パナマ文書の時以上に脱力します。

しかし生活の為よりももっとひどいのは自分の楽しみだけや贅沢の為に人を犠牲することで、人の命を健康がけたたましく騒音をまき散らしながら走る高級外車に変えられているかもしれないし、不必要に大きな家かもしれない。
しかしそこには犠牲になった人の怨念というか重苦しい感情の念がついてまわっているような気がするのは、まさに人を食っているということである話が理解できたような気がします。

その自分本位の考えを持ったひとりがほんの少しでも積もり積もれば山となり世の中を悪くすることもあれば、逆にひとりの小さな抵抗や批判でも積もり積もれば大きな変化を及ぼせるとポジティブに捉えることも出来るように思えます。
誰かの自分ひとりぐらい仕方ない、自分ひとりぐらいでは何も変わらないの裏に隠れ潜み肥え太っている怪物は、まさにひとりひとりがそれに餌を与えその地位を守っているという話だと思います。

なんというかそれがここにきていよいよ極まってきた感があるというか、日本でも身内兄弟の企業への利益誘導もエッフェル塔も学歴詐称も結構だけど、また居眠りもスマホいじったりもですが多分スマホのフロントカメラを使って前髪をせっせと直している議員の姿を見て、多分国民は自分の髪の毛一本ほどの価値も感じていないんだろうなあというのがありありと分かったり、普段どういう考えなのか言葉や態度の端々に現れているのを見ている人はちゃんと見ているというのも最近よく分かりました。

何を変えるにしろ主権そして現状を変更できる力はひとりひとりにあって本来政府や官僚、メディアにはなく、ただそれに従う者がいるから続いているのであって自分ひとりぐらい、という気持ちを一旦脇に置いて今仕方なくでやっていることがあるとしたらその影響を改めて見つめ直すのは大事だなと自分にも言い聞かせようと思いました。

最後の余談 徳の種類

先ほどの、例え自分が不利益を被っても誰かの助けになるというのは人を食うこととはまったくの逆で、普通の徳よりも何段も上の徳となるということですが、徳というのはなかなか積み上げにくいという話がありました。また感謝されると消えるし、見つかっても消える陰徳というものがあるそうです。

結局人間の生は魂の長さからいったらほんの瞬きほどの一瞬なのにそれに固執して永遠の魂を損なうようなことは非常にもったいないことであるから、その一瞬をぜんぶ徳を積み上げる期間にするぐらいの気持ちでいれば、変に幸福を追い求め続ける地獄よりも逆に吹っ切れて活力が湧いてくる、という話は大分昔に聞いて感銘を受けたものでした。






自己紹介

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個人サークル「elh(エル)」及び所属制作サークル「future extra」にてオリジナルの電子書籍作品、ヴィジュアルノベル、RPGなどを作っています。 無料作品もありますのでお気軽にどうぞ。各作品の詳細及びダウンロードはelhのサイト及び各サイト様へのリンクにてご案内しております。 ハンドル名の由来は映画『2001年宇宙の旅』のHALプログラムを簡略化したものです。

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