キリスト復活の日のすぐあとに、幻想の宗教のトップが亡くなるということはどう考えても天の采配としか思えません。
バチカンの闇が暴かれる日も近づいたのではというところでこれはまさに、人類史にとってとても長かった抑圧と束縛、惑わしの幻想の宗教が終わり、人が元々持っていたけれど失われかけていた、本来のものの復活ということにも見えます。
この報せがある数時間の前のポストに、イエス・キリストとはどんな存在か、またその本来の役割とは何かが簡潔に書いてありました。
このポストの中で特に心に響いた箇所を部分抜粋しました。
抜粋したものの間に書いてあることもまた凄いので、是非全文をリンクからどうぞ。
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彼はあなたを「救う」為に遣わされたのではない。
彼はあなたを活性化する為に来ました。
彼は崇拝を求めなかった。
彼は具体化を教えた。
彼は上を指さなかった。
彼は内側を指差した。
彼は救いを売っていたわけではない。
彼は主権を明らかにしていた。
彼は単に精神性を教えていたのではない。
彼は周波数アーキテクチャを教えていました。
誰かが次の行動をとるたびに:
•真実を語る
•ループを中断する
•子供を守る
•身体を尊重する
•自分の光を思い出す
イエスは復活する。
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既存の宗教は、人の内側ではなく外にある。人とは切り離された別の何かや人物を崇めさせようとする偽のものばかりで、人とは小さく何の力も無く常に何かによって翻弄され続けるだけのちっぽけな存在と教え込まれてきたのではと思えます。
そうして宗教。権威。お金や死の恐怖。罪悪感などの感情。それらに従い主権を明け渡し、真実から遠ざかり体だけなく精神の奴隷となっていたと。
聖書も書き加えられ改ざんされたという部分が結構あり、札を買えば罪が無くなる訳がなく、お金持ちだからといって天国に行けない訳でもない。
旧約聖書の数々の残虐な行為の記述がありますが、これは個人的にかなり何か別の意図を感じるというか疑問があります。タルムードについても併せて考える必要があるとも思っていますが。
聖書に書いてあることだからとすべて盲目的に信じ受け入れるのではなく、自分の内側に聞いてどれが正しいか、どれがイエスが本当に伝えたいことだったのかを見極める力を養う為の一種のテストとなったのではとも思えます。
ブルービームにしろ、もし仮に救世主が現れ今の問題をすべて解決したら、誰しも盲目的にすべての主権を預けてしまい、後はその救世主次第でどうとでもなる世の中となり、結局は何も変わらないというか、誰かや何かに従うだけの奴隷の世界となることを避けようとしたのではと。何かを頼ることはあっても、主権までも譲ってはいけないことで、その線引きを見極めるのはなかなか難しいですが。
イエスは単純に悪を打ち倒そうとした訳ではなく、悪のまやかしが作り出した幻想を打ち破り、人が持つ本来の力を思い出させようとしていたのではと思えますが、これを象徴するようなエピソードが聖書の中にあってよく覚えているのですが、イエスの衣に触れた女性というマルコによる福音書5章33節の部分です。
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25 さてここに、十二年間も長血をわずらっている女がいた。
26 多くの医者にかかって、さんざん苦しめられ、その持ち物をみな費してしまったが、なんのかいもないばかりか、かえってますます悪くなる一方であった。
27 この女がイエスのことを聞いて、群衆の中にまぎれ込み、うしろから、み衣にさわった。
28 それは、せめて、み衣にでもさわれば、なおしていただけるだろうと、思っていたからである。
29 すると、血の元がすぐにかわき、女は病気がなおったことを、その身に感じた。
30 イエスはすぐ、自分の内から力が出て行ったことに気づかれて、群衆の中で振り向き、「わたしの着物にさわったのはだれか」と言われた。
31 そこで弟子たちが言った、「ごらんのとおり、群衆があなたに押し迫っていますのに、だれがさわったかと、おっしゃるのですか」。
32 しかし、イエスはさわった者を見つけようとして、見まわしておられた。
33 その女は自分の身に起ったことを知って、恐れおののきながら進み出て、みまえにひれ伏して、すべてありのままを申し上げた。
34 イエスはその女に言われた、「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。すっかりなおって、達者でいなさい」。
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マルコによる福音書5章
イエスはすぐ、自分の内から力が出て行った、と書いていますが、イエスの力で治癒されたというよりかは、イエスを信じる力によって本来持っている力が引き出された為、と個人的に解釈しています。
イエスは宗教を作ったり自分を崇めさせたりするのではなく、人が本来持っている力とは何か。また人とは本来どういうものなのかを体現し常に思い起こさせようとしていたのでは思えます。
神も悪魔どちらも実態がなく、善行も悪行も常に人を介して行われること。
従い探し求めるものは外ではなく、自分の中にあるものだということ。
そう考えると日本の神社の拝殿には鏡があること。三種の神器のひとつが鏡であること。
また契約の箱に収められているモーセの十戒は、日々の自分の行いや心の持ちようを頻繁にチェックする為の鏡と呼ばれていることとも重なりあうような気がします。